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【NPJ通信・連載記事】音楽・女性・ジェンダー ─クラシック音楽界は超男性世界!?/小林 緑

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第70回 : 母の急逝と、思い返す家族の戦争体験

2020年4月8日


 小林緑担当の、本年初の更新を、2020年 4 月 5 日としたのは、実母の104回目の誕生日に合わせたためだった。その母が誕生日目前の 3 月23日、急逝・・・つまり本稿は、母へのオマージュである。子育て / 結婚生活の大部分を過ごした杉並に立地するケアハウスの最年長入所者だったが、救急入院するまでもなく、ハウス内で “老衰” のため亡くなった。

 前夜 3 月22日、ハウスから「いつもと様子が違い、苦しい、と繰り返しています」と連絡を受け、ある程度覚悟のうえでそのまま床に就いたが、翌朝再度「お歳がお歳ですからご家族皆様にご連絡を」と電話。最低限の電話連絡を終えて夫とともにハウスに駆け付けると、何やら呻きながら片手をしきりに動かしている。介護スタッフが夜は静かに寝て、朝食も半分程は食べた、という言葉に一安心。近間でお昼を済ませ、中断した仕事の後片づけのため自宅に戻るやハウスより電話、「今息を引き取られました」 ! 結局、最後の瞬間に立ち会えた家族は一人もなく、介護スタッフのみに看取られての臨終となってしまった・・・

 入所以来ほぼ10年経つが、スタッフへの不満・悪態をつき続けるとともに、毎週交代で訪れる娘たちにまで「せっかく教育した娘が 4 人もいながらこんなところに居らなあかんなんて ! 」と、関西弁で怒りをぶちまけていた負けん気のわがままをなだめすかしたことが、まざまざと思い出される。ハウス退所のため持ち込み家具等の荷造りをしていると、新参のスタッフのおひとりが立ち寄られ、「このごろよく “ありがとう” と仰ってたので、ご自分の最後が解ってたんでしょう。でもよく “マッカーサーが” とか、言ってましたねぇ」というではないか !

 そう、私も何度か、この “マッカーサー” を耳にしていた。父の仕事の関係 ? か、母がソウルで生まれたこと、姻戚筋に植民地台湾総督府の役人がいたことなど、いろいろなめぐり合わせから初めて知り得た家族史の一部なのだが、いずれにせよ、1915年生まれの母の生涯には、1945年の敗戦前後の激動が刻み込まれていたからこそ、“マッカーサー” も自然に口をついて出たのだろう。
 

I. 2014年の敗戦記念日から省みて
 本連載第47回で、日比谷公会堂での集会『改憲・戦争・原発・首切りの安倍を、ともに倒そう ! 』(2014/ 8 /17) に出かけた際の、強烈な印象を記していた。6 年前と現下の状況は、無知・無恥の総理が居座っているだけに、コロナ禍を別にすれば、ほぼ共通する。ゆえに、その記事から父と母の戦争体験ともいえる事柄を交え、母への追慕としたい。

 上記 8 月17日のクライマックスは、先立つ長崎の集会で被爆者代表・城臺美彌子さんが長崎では削除を余儀なくされた『平和の誓い』を、元通りの形で報告されたことだった。テレビで全国に届いたあの胸のすく一節「集団的自衛権の行使容認は、憲法を踏みにじる暴挙です」も、眼前にアベをはじめとする政治家の顔を見て、咄嗟にアドリブで加えたとか。さらに「福島には・・・未だに故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや避難を余儀なくされている方が大勢おられます・・・早急に廃炉を検討してください」。最後は「長崎市民のみなさん、いいえ、世界中のみなさん」と呼びかけ、「被爆の実相を語り継ぎ、日本の真の平和を求めてともに歩きましょう」と結ばれた。無名ながら生活者としての実感を率直に主張する女性の強さは、改めて今、亡母にも共通するように感じられる。

 同日、荻野富士夫さんによる『蟹工船』と小林多喜二に関する講演を聞けたことも大きかった。本連載で何度もご紹介した女性作曲家、吉田隆子をめぐるNHKのETV特集 (2012年 9 月放映) にて、背景となる治安維持法や特高警察などの実態について解説されていた荻野さん。隆子の生涯を表面的にしか知らず、このような社会史的研究者が存在することに思い及ばなかった私は、荻野さんの肉声を通して、隆子が「小林多喜二追悼の歌」(1933) を作曲したことの意味も、真から納得できた。

 しかも荻野さんの本務校、小樽商科大学は、多喜二と同じく私の父も学び、多喜二ともほぼ同期生だったことになる。関西生まれの関西育ちである父が、なぜ小樽商大に・・・ ? 子供心にも不思議だったが、何しろ父と私たち 5 人の子供と母との関係は、家父長制と文化第一主義ないまぜの中で生まれた、なんとも説明しがたく、わからないことだらけ。父は1971年に69歳で亡くなったが、1902年生まれだから、当然あの戦争に出征していたはずなのだが、体調不良とかで徴兵をまぬかれたらしい。戦時中、その父がひとり東京に居残り、母は下 4 人の子供とともに関西の親戚先を転々と疎開生活、長姉はひとり長野に集団疎開していた。その長姉を数年前、自治体が主催する「集団疎開の回顧展」に誘ったところ、「絶対いや ! 」とすさまじい拒絶反応。5 人の子供たちのなかでただ一人、戦争の悲惨さを体感していたからだろう。

 一方1942年生まれ、末っ子の私もまちがいなく「戦中派」ながら、戦争にまつわる悲惨な記憶は全くない。疎開先で乗せられた牛車で、「この牛のろいねぇ」と文句をつけて母から叱られたり、お米の配給場所でこぼれた米粒を遊び半分、缶に拾い集めたり・・・疎開を引き上げ杉並の社宅に戻ったところ、父の頭髪が真っ白に変わっていたこと、その父が庭の真ん中に一人で堀ったという大きな防空壕があったこと、押入れの隅には避難用の鉄兜や防空頭巾があったことなどが、うろ覚えに思い出される程度である。
 

II. クラシック音楽狂だった父
 証券会社勤めが嫌でたまらなかった父は、実は “狂” の字がつくほどのクラシック好きで、若いころからレコードを買い集め、自宅でその鑑賞会など開いていたらしい。専門教育とは無縁のどこまでも素人だ。関西でお雇い外国人の下で声楽やクラリネット、ヴァイオリンまで手を出し、結婚後は妻子を抱える身ながら、無謀にも音楽への転身を夢想していたトンデモ親父だった。しかしその執念を以て子供 5 人に音楽の練習を強いたおかげか、私もその道で何とか自立することができた。

 ちなみに、たった一枚手元に残っている 7 人家族全員の写真には、カーテンを引いた洋窓を背景に、アプライトのピアノと譜面台まで組み合わせてある。専門の写真家に依頼したとしか思えない撮影の日にちを改めて見直すと、なんと1949年 1 月…つまり敗戦後わずか 3 年半である。あの福島原発事故が今や発生後 9 年半、そもそも欺瞞で固めたオリンピックを口実に復興が喧伝される陰で、まずます過酷な汚染状況が進行しているのに引き換え、敗戦後わずか 3 年半の東京では、一介のサラリーマンが家族写真をプロの写真家に頼むまでに生活再建も出来た・・・被災の当地と都市中枢の格差問題にもつながる例であろう。

 それにつけても、時には容赦なく鉄拳をふるった父に対して、子供心に恐怖しか感じなかったけれど、今では感謝あるのみ。極め付けは 4 人の娘全員を呼びつけて――たぶん私が中学卒業のころだった――「男に食わせてもらうために教育したんやない ! 絶対に結婚なんかするな」とどやしつけた・・・父を思い出すたび、真っ先に浮かぶのがこの一幕だ。これを思うにつけ、世界中の女子が等しく教育を受けられるよう、願わずにいられない。ちなみに家事は全くせず、「人の禄を食むくせに・・・」と家長風を吹かせ母を侮辱する傍ら、たった一人の息子にはほとんど関心がなく、挙句「あれも娘やったらよかったのに・・・」とつぶやくとは、本当に奇妙なキャラの持ち主だった !
 

III. ケアハウスでの母の独り言ち
 頑固一徹、DVもどきの父と添い遂げる母の苦労は並大抵ではなかった。 父より 14歳年下の母もしかし、音楽の趣味と教育の意義だけは共有できたものらしく、子供 5 人にも分け隔てなく接してくれた。そこで、戦時体験者が希少になりつつあるこの国の現状に鑑みて、母の口から洩れ聞いた戦後の窮乏生活の一端を書き留めておこう。

 ソウルで生まれたのち神戸で育った母は、一時会社勤めも経験したらしい。父とはその職場で出会い、19歳で結婚、8 年間に 5 児を生んだというエネルギーの持ち主だ。姉二人、妹二人に挟まれた真ん中の男の子は一人だけ、その一人息子も一応ピアニストの仲間入りをしていたが、胃癌で35年前に死去。残る娘 4 人はみな後期高齢者に類するが、何とか老老介護をこなしている。以前から耳が遠かった母は、「耳が聞こえんのは目が見えんより苦しいんよ」とよくこぼしていたが、少し前まで裸眼で大きな文字を読み、肌はつやつや、髪もふさふさ、食欲にムラはあるものの、亡くなった朝も点滴でなく口から食べていた・・・。

 週一ペースで娘 4 人が順次見舞ったが、認知症の一種らしく時系列は出鱈目なまま、社宅の天沼の家と、父の退職金で購入した上荻の家とをごっちゃまぜで話す。スタッフへの不満など悪口雑言も吐くが、しばしば繰り返したのが「だからマッカーサーに馬鹿にされるんや」。見舞った私が帰宅しようとする際には涙も浮かべて「心配や・・・大丈夫 ? 兵隊が隠れとるから・・・気いつけて」。具体的にはこうした言葉がどんな場面に当てはまるのか、確かめられないが、何やら恐ろしい経験のトラウマがあるのではなかろうか。

 だがもはや戦後とはいえぬほど年を経てからも、物資不足の厳しい暮らしぶりは、折に触れ聞かされた。関西での疎開を切り上げ子供 4 人とともに窓からやっとの思いで乗り込んだ引揚げ列車の中、埋め尽くした復員兵たちのし尿と汗による ? すさまじい悪臭・・・その彼らに向かって「このたびはお勤めご苦労さまでございました。子供 4 人連れですが、どうぞよろしくお願いいたします」と挨拶すると、その甲斐あってか、兵隊たちがポケットから飴を出して子供たちに分けてくれたり、トイレにも頭上の手渡しで運んでくれたりしたという・・・

 東京に戻るや食糧確保の難題が待ち受けていた。天沼の家から田無の農家まで歩いて日参、お金もなく、大抵は着物などと物々交換だったらしい。ある時など、畑にたわわになったナスが目につき、空腹のあまり思わず生のままかぶりついたら、そのなんと甘くておいしかったこと ! 自分でも見様見真似、庭でかぼちゃを毎年50個ばかり収穫。ガスや水道はなく、ごはんを炊くにもまず薪割りと井戸汲みから。そのころの食卓には乏しい主食におかずといってもトマトやかぼちゃや大根、せいぜい大豆と昆布の煮物など・・・だがいずれもおそらく農薬など無縁な食材ばかり、よく働いて過食せず・・・本連載第40回で触れた「伝統食の復権」の教えに沿ったライフスタイルだ。現在の高齢者の元気の素はここにあり・・・と確信する。
 

IV. 母の反骨精神と与謝野晶子
 しかし、日常の苦労話よりも驚かされるのは、母が「軍国少女」どころか「皇室なんか要らん ! 宮城遥拝なんて阿呆らし、いっつもそっぽ向いてやった」と誇らしげに語っていたことである。子供さえいなければ、さっさと離婚して政治家になりたかった・・・とも。ケアハウスでもテレビに向かって「下らん ! 嘘ばっかり言うて」とつぶやく。この反骨精神はいったいどこから ? ・・・弟妹にも皆先立たれてしまった母、このあたりを探るすべがないのはいかにも残念だ。それだけになお、母のこの生きざまを忘れず、城臺美彌子さんが体現された真実の人間力を秘めた女性を掬い上げる仕事を最後まで続けねば、とわが身に言い聞かせている次第である。

 なにより、母の急死が現下のコロナ禍ゆえでなかったことが、せめてもの救いであった。

 疫病禍といえば、スペイン風邪を生きぬいた与謝野晶子の一文『感冒の床から』(執筆1918:「与謝野晶子票論著作集 第18巻」2002より) に一言し、本稿の結びとしたい。

 「盗人を見てから縄を綯う・・・米騒動が起こらねば物価高騰の労苦が有産階級にわからず・・・学生の凍死を見ねば非科学的な登山流行の危険が教育界にわからないのと同じく、日本人に共通した目前主義や便宜主義の性癖の致すところ」等々・・・100年経って何一つ学ばず、暗愚の総理に踊らされている今の日本にピタリあてはまる洞察ではないか ! これをいち早くイタリア語訳されたのが、ルカ・カッポンチェッリ Luca Capponcelli さん。昨年 9 月のコンサート「バルバラ・ストロッツィ生誕400年」を企画された佐々木なおみさんのパートナーである。彼の伊訳のおかげで、最悪のコロナ禍に苦しむイタリアを越え世界中で大ブレークという晶子の慧眼には驚くほかない。恥ずかしながら私も晶子と 7 日間だけ同時代者であり、さらに鉄幹との終の棲家跡 (現与謝野公園) が地元杉並の拙宅に近い南荻窪。晶子にこだわる理由がもう一つ加わった。シチリアから原文と訳文双方を紙資料化できるよう送付してくださった佐々木・カッポンチェッリご夫妻に、心より感謝する。このご縁から、忘却の淵に沈んだ女性作曲家と喫緊の生き方の問題がつながったことを、意味深く想う。

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