2008.4.26


津田 秀一
プロフィール


チベット難民キャンプ訪問報告

カトマンズ 2008年4月7日(快晴)

  チベット難民キャンプは、イメージしていた荒地にテントを張って生活しているものとは全然違って、コンクリートまたはレンガつくりの堅牢な建物群が並び、 周りを有刺鉄線を上部に付けた堅牢な塀で囲まれたコミュニティーで、タメル地区 (筆者注:カトマンズの王宮のそばにある地区で、 観光客向けのみやげ物屋やゲストハウスが密集している) の商店などよりもよほど立派である。ネパールの高級住宅地といった趣。

  難民キャンプの入り口にある、手工業センターは学校のようながっしりした4階建ての建物である。左手建物の2階に行ってみたら、 3人の年配の女性が糸紡ぎをしている。羊の毛を糸にする作業だ。見ていると簡単そうなので、頼んでやらせてもらった。 左手に羊の毛を持ち、右手で糸巻きのハンドルを回すのだ。糸巻きのハンドルを回すのに気をとられていて、毛がだんだん細くなり、しまいに切れてしまった。 「しまった」 と思っていると、切れたところに羊毛をあてがって、こともなげに直してくれる。巻き取るスピードと羊毛を供給する動作が調和していないとだめなのだ。


門の脇の施設名の拡大

難民キャンプの入り口にある手工業センター
  最上階にあるカーペット売り場に行く。売り場の若い女性の話。
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  この難民キャンプには現在900人くらいが住んでいる。父が 1959年にチベットからこちらに逃れてきた。チベットに自由が無くなったからだ。そのとき父は9歳だった。 私は2世だが、このキャンプにいる人は大半が3世だ。以前はここにも亡命チベット政府の事務所があったが、中国政府の圧力を受けたネパール政府によって、 2002年頃に閉鎖させられた。

  中国による今回のチベット人殺害については正確な数字は分からないが、900人から 1000人にのぼると観測している。 外国メディアに真実を話した僧侶たちも殺されたものと思う。正確な数字は誰にも分からない。

  情報は BBC、CNN、インターネットのほか、現地からの電話で得ている。 死体が兵士によって埋められた、とチベット自治区以外の東部や北部に居住する同胞から聞いた。これは死者の数を隠すためである。 布にくるんだ死体を公衆の面前に放置し、見せしめにしている。僧侶の赤黒い袈裟を持つ中国警察の写真を見せてくれた。 警察が僧侶の袈裟を着て破壊行為などを演技した証拠だという (あとで会ったタシ氏は、その写真は今回の事件のものではなく、以前のものだ。 チベット人の間でも情報が混乱している、と言っていた)。インターネットで公開され、僕も見たことのある、チベット人の無残な死体写真を見せてくれた。

  チベタンを素手で殴る中国警察に後ろから UML (筆者注:United Marx Lenin の略。穏健な共産主義政党。 対抗するマオイストは、名ばかりの共産主義者である、と批判している) のシンボルを付けたネパール政府の人間が、 「素手では手を傷めますよ、これを使いなさい」 と棒を差し出している漫画がチベット、中国、ネパール三国の関係を風刺している。

  我々は中国の人民に憎しみを持っているわけではない。中国政府は国民に真実を伝えていない、と怒りを込める。

  アムネスティ、ヒューマンライツ・ウォッチ、UNの活動には感謝している。われわれはここにいては何もできない。ただただ祈っている。

成都市内とパトロールする武装警官

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  手工業センターと通りを隔てた向かい側に難民キャンプがあり、その入り口近くにお寺がある。中では広間を埋め尽くす50人くらいの若い僧侶が読経をしていた。 チベット仏教特有の、体を前後や左右に揺らせながら歌うように延々と読経を続ける。ラサ郊外のセラ寺でみたのと同じやり方だ。

  若い僧侶たちの周りを一人の男性が回ってペプシコーラとミリンダを配っている。広間の入り口付近でこれを見ていた僕のところにも配ってくれる。 丁度のどが渇いていたところなので、合掌をしてありがたくいただく。若い僧たちは勝手に時々読経を止めて、ペプシコーラを飲みながら隣の僧と談笑している。 一人の僧が持っていたペプシコーラが瓶から噴出して台の上に置いたお経を濡らしてしまった。隣の僧がトイレットペーパーをちぎって拭く。 じっと腕組みをしたまま、眠っている僧もいる。途中で一人の僧が席を立ち、しばらくして戻ってきた。トイレにでも行ったのだろうか。 こうやって各々は休憩を取りながらも、全体としては読経が絶え間なく続いていく。


キャンプ内のお寺で読経する若い僧たち

お寺の外観

  読経する僧の列の前を通って、寺の奥に進み、ペプシコーラのお礼の意味も含めて、奮発して賽銭箱に 100RP札を寄進する。 日本円にすると、たかが 150円と馬鹿にできる額ではない。この国では、朝から晩までカンカン照りの下で、農作業の手間賃が50RPなのだ。

  なおも読経を続ける寺を後にして、キャンプ地を巡回する。ちょうど日本の公団のような集合住宅の入り口付近に集まっておしゃべりをしている人たちがいた。 マニ車を回すチベット衣装のおばあさんもいる。近くの草原には紐を渡してスリーピング・バッグや毛布を乾かしている。

  英語が達者な女性が話をしてくれた。われわれは亡命3世で、祖父母たちがここに逃れてきた。カトマンズ市内の日本レストランで働いている。生活はまあOK。

  平和祈念集会からたった今帰ってきたという、オートバイのヘルメットを抱えた男性がいた。頬の片側になにやら文字が描かれている。 「ペオー」 と読むのだそうで、「チベットをチベット人に」 の意味を持つ一文字。カトマンズ市内でカーペット販売の仕事をしているとのこと。 この人から、平和祈念集会が今日5時で終わることを聞きつける。あと2時間だ。

  カーペット売り場に引き返し、玄関マットを一つ買う。売り上げがキャンプの運営資金になっているということで、難民支援のつもりで全く値引きしないで買う。 カーペットは3種類の品質があり、品質別に単位面積あたりの価格が表示してある。 最高品質の 100Knots (220ドル/平方メートル) のもの、0.53平方メートルを7113RPで購入。

  先ほどの売り場の若い女性から平和祈念集会の詳細な場所を英語とネパール語で記入してもらい、 もう一人の女性がこの場所が分かるタクシー運転手を探し出すために、僕と一緒に通りに出てくれる。普通のネパール人は知らないところで行われているらしいのだ。

  カトマンズの南の難民キャンプから市内東北部の平和祈念集会にタクシーで移動。塔の上から巨大な眼が四方を見下ろす、ボウダという有名なお寺の近くだ。 細い道を何度も曲がった、非常に分かりにくいところにある。正式名称は Welfare House of Tibetan Community とのこと。白い建物なので通称 White House と呼ばれる。


ものすごい人の数

  ここも堅牢な塀に囲まれた一画で、狭い入り口を入るとものすごい数の人が地べたに座っている。数百人はいるだろう。 キャンプで会ったオートバイの男性は 1500人だといっていたが、よく分からない。入り口を入ったすぐの正面に、「Peace」 と大きな文字が描かれ、 その下にインターネットで公開された殺害された遺体の写真が大きく印刷されて掲げられている。 いろいろなメディアや各国要人の発言も掲示されている。オバマ候補のものもある。


虐殺写真の拡大

  僕が着いたのは4時過ぎころ。丁度食事時で、炊き出しの食べ物とミルクティーを係の人が配り、皆座って食べている。 一組の西洋人男女も座って食べている。左手奥のほうに進むと体育館のような建物があり、ここでもたくさんの人が座って食べている。 僕を見つけた係の女性がビニール・カップに入れたミルクティーを渡してくれた。もう一人の人が食べ物の入ったアルミホイルの皿とスプーンを渡してくれた。


平和祈念集会の入り口

参加者の若者

僕に配られた食事

  壁に沿ったところに空いたスペースを見つけて床に座って食べる。 硬いコーンフレークのようなものにジャガイモとグリーンピースの入ったカレーをかけたもので、素手ではなく、皆、先割れスプーンで食べている。 赤ん坊を抱いた隣の女性の話では、シュゴー・ムジという食べ物。ハエがうようよ飛んでいる地面に座って食べたが、ミルクティーもムジも美味で、両方ともお代わりをする。

  受付の女性にアムネスティ日本のメンバーだと言うと、係の人を紹介してくれ、建物の2階の事務所でインタビューする。

  タシ・プンツオク氏 (委員会メンバー) の話。
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  私は 1950年に西チベットの Nublung で生まれた。1959年にエベレストの近くのソルクムに引越し、1974年にカトマンズに来た。 それ以来、カーペットの製作や輸出を仕事にしている。ネパールにはチベット人コミュニティー地区が 16あり、そのうち4つがカトマンズにある。

  このプログラムは3月16日にスタートした。チベット人への殺害行為に反対する活動をコーディネートしている。 この活動で逮捕されたり、怪我をした人への援助活動もしている。我々の活動は中国人に反対するものではなく、中国政府に反対するもの。 原則9時から17時まで祈っているが、非常事態が発生すると、連続して祈る。 最近はまず一つのお寺の僧侶たち300〜400人がぶっ通しで72時間祈り、その後、別の寺の僧侶たちが80時間連続で祈っている。 今日の5時に一旦終了し、憲法制定議会選挙が終わったら再開する。今度の選挙は重要なので、ホストカントリーの邪魔をしたくないからだ。

  中国政府は真実を国民に知らせていない。別のストーリ−を作っている。
  情報が隠されていて何人殺されたのか分からない。今度の事件によって中国政府は TAR (チベット自治区) を閉鎖し、人間や情報が外に出ないようにした。 しかし、チベット人はその外側の東部や北部の四川省や青海省などの広大な地域にも多数いて、その地域全体を閉鎖することはできなかった。 これらの地域から写真や情報が出ている。

  我々は国際キャンペーンとして以下を行っている。
● 中国と話し合う Talk China
● 中国に圧力をかける Press China

  ダライラマが先導したというが、それならクローズにせずに第三者の調査機関を入れるべきだ。

  昨日ここに来たカナダ人から聞いた話。
  3月14日にラサにいた。ホテルの窓から外を見ていた。チベット人が中国人を殺す場面は見ていない。戦車やトラックが現れて、チベット人は逃げていた。銃声を聞いた。

  アムネスティには感謝している。私の写真や名前を公表するのは構わない。


タシ・プンツォク氏

Sonam と僕
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  受付をしていた Sonam という38歳の女性は英語が堪能である。僕のヒアリング力を心配してか、ノートにどんどん英語で書いて説明してくれる。 5時に祈念集会は終了し、皆が掃除やら跡かたずけを済まし、ほとんどの人がいなくなった。 暗くてノートの文字が見えなくなる6時半まで、1時間以上熱心に説明してくれた。言いたいことが尽きない様子。 以下は彼女が英語で僕のノートに書いて説明してくれた内容。
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  まず、僕がこの運動に 100RPを寄付したことへの礼状兼領収書

  中国政府は、悪い情報を絶対に中国人民に公開しない。
  チベットには非常に多くの苦難が発生している。

  リンポチェ (筆者注:チベット仏教の高僧) がラサの親戚からの電話で昨日聞いた話。
  ラサの留置場に2000人がとらわれていた。
  うち40人が解放されたが、全員負傷していた。
  老人がまだとらわれている。

  チベット人は中国の人々に対して怒っているのではない。中国政府に対して怒っているのだ。 何故、中国政府はジャーナリストを入れないのか? それは、中国政府が真実を開示したくないからだ。

  ダライ・ラマ尊師 His Majesty The Dalai lama は宗教上の指導者であって、チベット人は自発的に闘っているのだ。 チベットと中国は何もかもが違っている。つまり、言語、文化、宗教、食物、行動様式が異なる。

  警察は死体を家族に返さず、土の中に埋めたり、あるいは拘束した人を北京に連行している。

  カナダ、アメリカ、インド、ネパール、ヨーロッパで抗議行動 shout out をしている。ラサの同胞は声を上げられない。

  20人の人が抗議しても中国政府は無視するだろう。
  200000人が抗議したら中国政府は無視できない。

  中国は嘘をつき、チベット人は死ぬ
  Chinese lies, Tibetan dies

  中国政府は悪いことだけをチベットに持ち込んだ。今やチベットには安っぽいビールや売春がはびこっていて、ニセモノの発展 Artificial development があるに過ぎない。
  ラサ空港に行けば中国語があふれている。この状態が永く続いているので、チベット人はチベット文化やチベット文字を忘れかけている。

  1960〜70年代生まれの世代の人々はダライ・ラマ尊師がインドに作った学校に行った。 そこでは英語、チベット語、ヒンドゥー語 (又はネパール語)、歴史、科学、地理、数学を習った。その世代の親たちはネパール語も英語もしゃべれずに貧乏した。

  チベット人は、チベットが絶対に中国の一部ではない (なぜなら伝統も文化も言語も全て異なる) ということを世界に知らせる機会として、 2008年のオリンピックを捉えている。

  チベット難民はネパールにおいて、たとえ大学を卒業して学位を取っていても、銀行や政府の役人の高い地位に就けないし、選挙権も無い。

  中国政府はダライ・ラマ尊師と対話をしに来ないし、時間を引き延ばして、ダライ・ラマ尊師の年齢のことを考えている。 しかし、我々チベット人の闘いは簡単に終わらない。

  チベットから来る親戚は、(ネパールにおいても) ダライ・ラマ尊師の写真と一緒に写真をとられることを恐れる。
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  (名前や写真を公表しても良いか、との問いに) 自分は死ぬことを恐れていはいない。何度も握手し 「ペオー」 と言って別れる。

  Sonamと一緒に受付をしていた女性が暗くなった道をボウダ (筆者注:チベット仏教の大寺院。 ドーム中央から佇立する塔の四方の壁面に巨大な仏眼が描いてあり、参拝者を見下ろしている) まで案内してくれる。彼女の話を最後に紹介しよう。

  難民の子供はインドの学校で寮に入って12年間 (6歳から18歳まで)勉強する。 インドには二つの種類の学校があり、一つはチベット亡命政府とインド政府の援助で作られた学校で学費は安い。 1世は英語もヒンディー語もネパリも話せず苦労したので、2世以降は教育を重視している。私の子供たちもインドで勉強させている。 一年に2ヶ月間休暇があり、その時には帰ってくる。
  自分は主婦で、夫も現在無職でリンポチェが新しい寺を建てるのでそのサポートをボランティアでやっている。以前働いていたときの蓄えで食べている。 貧しいが充実している。
2008.4.26