2008.7.8 更新

「何でも見てやろう」 熟年版 No.4

津田 秀一
プロフィール


アンナプルナ・ジョムソン・トレッキング 2-1

3月23日(日)

  5時半 wake up call で起床。昨夜はナクルとエベレスト・ビールを3本飲んだ。彼は日本でビールの味を覚えた。 ビール一本160ルピーだから、この国の物価にしては高い。

  いよいよトレッキングに出発だ。ポカラ空港で、ナクルが奥さんと同じ村出身の男性と話している。どこの出身かと訊いたら、偶然奥さんと同じ村出身だったのだそうだ。 奥さんのことも知っているという。

  17人乗りの飛行機。全て窓側席のプロペラ機。キャンディーと綿の玉がお盆に入れて配られる。7時半、小さな飛行機はヒラリと飛び立つ。 綿球は耳栓にするのだと言うことが飛び上がってから分かった。エンジンの音がものすごくうるさい。マチャプチャレを窓の上に見上げながらの飛行。 飛行高度よりも山の方が高いのだ。紅い花の咲く森を越え、森林限界を過ぎ、雪山が見える。谷川が水しぶきを上げ、釣り橋も見える。 軍隊の兵士がランニングしているのも見える。音はうるさいが揺れはそれほど無い。

  15分でジョムソン着。標高2720メートル。空港内と空港を出てすぐの窓口とその隣の警察で、それぞれ入山許可証をチェックされる。


ジョムソン付近にて


ジョムソン付近にて

  8時ジョムソン発。カグベニを目指して、ゆっくりと歩く。ジョムソン村のはずれの茶店で一服。この後はしばらく茶店が無いのだ。川に沿った細長い村。 きれいな石畳。モーターバイクや4輪自動車も走る。あくびが何度も出てくる。高山病の前兆か。努めてだらだら歩く。時折突風が背中を押す。

  ダウラギリらしい山を見ながら休憩。ナクルはガイドのくせに山の名前を知らないのだ。遠くの左側の山がダウラギリ、右手前の尖ったのがマナスルだという。 地図で確認すると、両方ともダウラギリのようだ。マナスルなんてこのあたりで見えるはずは無いのだ。

  大阪から来た O さんもツアーに参加している。旦那さんが亡くなってその遺産でネパールの学校支援をしている。2000年から毎年来ているとのこと。 ポカラから2時間ちょっと行ったところにある学校をサポートしている。5年前に友人がエベレスト近くで事故死。 故人の友人に頼まれてムクティナートでプジャ (法要) するのがこの旅の目的の一つ。昨年暮れにパリ・ツアーで遭った友人Aさんと一緒に来ている。 だだっ広い砂利道の続く道端にポツンと一軒の休憩小屋があった。小さなりんごを売っている。 5ルピー。ネパールに何度も来ているという O さんから、岩塩がお土産に喜ばれたと聞く。

  12時にカグベニ村の入り口に到着。数軒の集落がある。柳沢桂子 「生きて死ぬ知恵」 「心訳般若心経」 を勧められる。 柳沢桂子さんの旧姓の中村と歎異抄がなかなか思い出せない。高山病でぼけているのか。 (後で調べてみたら、中村桂子さんと柳沢桂子さんは両方とも生命科学者であるが、別人であった)

  1時過ぎにカグベニ着。標高2800メートル。4階建てのアンナプルナ・ロッジに投宿。 昼食はダル・バート (ネパールの典型的な家庭料理) を3階の見晴らしのよいレストランで食べる。レストランの床で、赤ん坊と母親が陽光を浴びながら昼寝している。 眼下に見える緑色の畑では麦に似た穀物が育っている。


ダル・バート

 メニューにはチキン料理が並んでいるが、現在チキンは無いとのこと。隣に中年のドイツ人カップルがいて、ポカラから4泊半でここまで歩いて登ってきたとのこと。 すごいスピードだ。極東アジア人の顔をした若者に 「こんにちは」、「ニイハオ」 と呼びかけると、英語しかしゃべれない、と英語で返ってきた。中国系ニューヨーカーだった。
  このロッジは2年前に建てられたそうで、作りがしっかりしていて、美しい木がふんだんに使われている。テーブルにマオイストの宣伝パンフレットが置いてある。

  ナクルはカトマンズ近郊の村で農業の傍らガイドをしている。農業に飽き飽きしていて、日本語を生かして何かビジネスをしたいと思っている。 二人でアイデアを出してみる。
● 日本でネパールレストラン兼旅行会社を経営。日本人向けネパールツアーを手がける。
● カトマンズのホテルのレストランを借りて経営。元手が余りかからない。
● 友人と一緒にガイドをし、トレッカーにホテルやレストランを紹介してコミッションをもらう。

  4時頃、ニルギリビュー・ホテル裏の高台に登る。ムクティナート (ヒンドゥーの聖地) へ続くはるかなる平野を背景にカグベニ村が見える。 カグベニは10戸くらいの集落だ。集落の端の方に古い城壁の様なものが見える。ヒューヒューと風がうなる。



カグベニ村

  O さんたちが投宿しているニュー・アジア・トレッカーズ・ホテルを訪問。こちらもまだ新しく、しっかりした作りだ。 レストラン横の裏庭のような石の塀で囲まれた畑にはキャベツとニンニクが育っている。

  5時頃、近くを散歩に出かける。城壁のように見えたのは風を防ぐための石を積んだ塀だった。 レストラン開業希望のナクルと、マーケット調査のために、通りすがりのロッジのレストランを覗き、メニューを見る。ミルク・ティーは全て20ルピー。 チベタンが経営するロッジのレストランでお茶を飲む。宿泊客はゼロ。 アンナプルナ・ロッジやニュー・アジア・トレッカーズ・ホテルのように立地のよいところに全部客を取られているようだ。

  16歳の娘が固いダイコンを切ってダル・バートの準備をしている。洗わないでそのまま皮を剥いていく。なるほど、土のついた皮は剥いてしまうので、洗う必要は無いのだ。 ネット・カフェと電話もある。インターネットは一時間600ルピー、ネパール人は半額。散歩した感じでは20軒くらいの集落だ。その半数がロッジ。
  レストランでシェルパ族の男とロッジの女性が話している。彼らの言葉はナクルには全然分からない。 ナクルの属するチェトリ族はネパール語をしゃべるので独自の部族語を持っていないが、たいていのネパリは共通語のネパール語以外に部族語をしゃべる。



客のいないロッジで、洗わないでダイコンを切る少女

  「少しでも耕して野菜を作った方が一番いいじゃないですか」 と、ナクルが変な日本語を使うので、訂正する。

  イタリア人カップルのガイドをしている、リラに会う。夕方の残照に照らされた横顔がきれいだ。 カーストの習慣では、チェトリ族のナクルはビシュカルマ族のリラに触れることも禁止されている。



夕暮れのカグベニ村のメーン・ストリートをヤギの群れが通る

  登山部出身の Y さんが、5日ぶりに日本語を使える嬉しさで機関銃のようにしゃべる。彼は、通常3週間かかるアンナプルナ山系一周を、10日間で踏破目前だ。 アジア・ホテルで O さんや Y さんと話しながら、晩御飯にチキン・カレーを食べる。肉は一人分のチキンが冷蔵庫に残っていたのだ。 アジア・ホテルでは、ナクルに無料で食事を提供すると言っていた。ガイド、ポーターの食費、宿泊費は基本的に無料なのだ。

  アンナプルナ・ホテルで宿泊料を訊くと500ルピー。アジア・ホテルは300だったとナクルが言うと、200ルピーでOKとのこと。 僕が夕食を他で食べた分を宿泊料に上乗せしようとしていたのかもしれない。

  9時就寝。寝袋の中で脚をマッサージ。パンパンに張っている。シャワーはいくら待っても少しぬるいだけの水しか出ない。 夜はダウンジャケットが要る寒さだ。シャワーはあきらめて、顔と足だけ洗う。


3月24日(月)

  6:40起床。寝過ごした。3階のレストランに上がっていくとドイツ人カップルが朝食中。「グーテンモルゲン」
  ナクルが現れる。地図で確認すると、ジャールコットはムクティナートまでの道の途中にある。お茶を飲んで、7:25出発。 途中、休憩中のイタリア人カップルを追い越す。未だ30歳くらいの女性が吐いたようだ。もうだめだ、と言う感じで首を振っている。 このカップルはガイド一人にポーター二人という大名行列だ。



ガイドのナクル

  8時に台地の上の平らなところに出る。グランド・キャニオンのような景観。8:40にもう一段高い平地に着く。 正面にイエカウカン、その右にトロンパス・ピークが光っている。モントリオール出身の初老の紳士に追い越される。イケムラという日本人画家を知っているとのこと。



奇妙な形の岩肌

  9時に無人の建物がポツンと建って、ベンチが一つ置いてある見晴らし台に着く。眼下の台地を百頭くらいの動物の群れを追う人の姿がかなたに見える。 ナクルによると、白くみえるのが羊で、大部分は黒い色のチャングラという動物。遠すぎて僕のカメラでは写せない。

  イタリア人カップルのポーターはモガル族とタマン族で、シェルパ族と同じモガル語を話す仏教徒。イタリア人女性は何度か吐いたが、あきらめずにゆっくりと登っている。

  10時すぎにジャールコットの入り口にある一軒のレストラン、「ロメオとジュリエット」 に着く。トマト・ヌードル・スープを食べる。100ルピー。 ナクルの30ルピーのミルク・ティーは無料にしてくれた。テーブルに麦の茎で作った本物のストローが置いてある。

  12時。ジャールコットの 「ニュー・ホテル・プラザ」 に着く。O さんと A さんも既に着いて休んでいる。
  カトマンズの北にある、ナクルの村ジャムル Jyamr にも行くことになったので、トレッキングを一日短縮して8日間にした。 トレッキング費用をディスカウントできるか議論になった。ナクルは、「会社に訊かないと分からない」 という。 ディスカウントの代わりに 「僕の飲み物代をただにしてくれればいい」 ということで妥結。費用には食事代は含まれていたが、飲み物代は別だったのだ。

  130ルピーのチキン・スープと190ルピーのミックス・フライド・ライスを注文。すこぶる美味。ナクルもサービスのダル・バートをうまいうまいとお代わりしている。 これは金を払うとしたら220ルピー。

  ドイツ人の10人以上の大集団が到着。 I like mountain と英語で歌いだした。急ににぎやかになる。食べ物が安くて美味いし、部屋代も安い。 ナクルを儲けさせるためにもここに泊まることにする。領収書なんかいちいちもらわないので、僕の食費や宿泊費が安ければ、 会社からもらった費用との差額がナクルの儲けになるのだ。昨夜はお湯が出なかったが、ここは本当に出るのか。 「お湯が出なかったら部屋代を払わないよ」、というとOKとこのと。アウトバスの部屋だが、ここに泊まることにする。 ここに荷物を置き、洗濯を済ませてから登っても、2時間でムクティナートに行ってこれるだろう。部屋代60ルピー。

  荷物を部屋に残し、2時にホテルを出発。3時にムクティナート着。
  ナクルとビジネス・プランを練りながら登る。このトレッキング中にビジネス・プランの概要を作る。6ヵ月後にビジネススタート。そのためには何が必要か。 まず、資金を貯めるために、ナクルが一人で東京に行く。ネパールレストランで働く。日本語力を生かして客集めか料理を運んで客に情報提供。

  メルボルンから来た11歳と8歳の女の子が、背の低い馬に乗って登っている。ちゃんと小さなヘルメットを頭に載せている。学校は3週間の休みをとって来たそうだ。



ムクティナートで弓に興じる人

  チベタンがヤクの毛で織ったスカーフを売っている。店先で機織をしている。指輪やネックレス、仏具類も売っている。 木の柄で周りをなでるとワーーーンとよい音が出るお椀を見ていると、チベタンが寄ってきて 「買うのか」、と訊く。 「ラサで買ったよ」、というと 「いくらで買った? もう一個どうだ」、と勧めてくる。

  一軒のロッジのルーフトップ・レストランでお茶していると、リラが客のイタリア人カップルを連れて通りがかる。メルボルンの姉妹の乗った馬も見える。



イタリア人カップルのガイド、リラ

  ムクティナートのお寺に登ったあたりで、ほんの少し頭痛がしてくる。標高3760メートル。今回のトレッキング中の最高度だ。 寺の背後には108の水が落ちている。ナクルは煩悩を鎮めるために一つ一つの水流を頭にかけてお祈りしていたが、途中で止めてしまった。



ムクティナート本殿裏で煩悩を鎮めるナクル

  寺のすぐ下のチベタン・ショップで手袋と帽子をヤク・ウールで作ったセットを500ルピーで買う。「イーブニング・プライスだよ」、と言って客寄せしていた。 手袋は指先部分が取り外せるようになっていて、ボールペンを使うときに便利そうだ。

  少し下り、ショールを売っていたお嬢さんの店で、300ルピーというのを100ルピーで押し通し、立ち去ろうとしたら、予定価格の150ルピーが出たので買う。 さらに下り、ムクティナートの入り口の坂道で、やはりショールを売っていた娘が古ぼけたレストランの前に立って声を掛けてきた。 「さっき、これを150ルピーで買ったよ」、と言うと 「安く買ったね」 と褒めてくれた。

  あまり客のこなさそうなレストランなのでお茶を一杯飲んであげることにする。ボイニイ (お嬢さん)、ランブロ (きれい)、 モンパーツア (好き) と覚えたてのネパリを乱発するが、あまり喜んでくれない。ミナという名前のグルン族の女性で、19歳とのこと。 店の看板をバックに写真を撮り、「僕の本に、ここのお茶が美味しいと書くよ」、とナクルの通訳で言う。

  雲がたなびいた中に夕日が沈む。神々しい姿で山々がかなたに広がる。日陰にはいると急激に寒くなる。日中は半袖でいいくらいだが、夜はダウン・ジャケットが欲しい。 買ったばかりの帽子、手袋を着け、マフラーとレインジャケットで寒さをしのぎながら、ジャールコットへ下る。

  6時40分にジャールコットのホテル・プラザに到着。標高3550メートルまで下った。 ハコモ、フェルナンドというマドリッドから来た叔父と甥の二人ずれと僕だけが今日の客だ。ほとんどのトレッカーはムクティナートに泊まるようだ。

  ヤク・ステーキ、ゆでたジャガイモ、ツボルグ・ビール、ローカルワインを注文する。ヤク・ステーキは干し肉を使った野菜炒めのような感じのもの。 肉は非常に硬かったが、味は野生的でしっかりしている。これにタマネギ、キャベツ、フライドポテトが添えられている。これだけで十分すぎるほどの量だ。 ゆでたジャガイモは全く手をつけずに返して、ホテルの家族で食べてもらった。

  どういうわけか、ネパール産のエベレスト・ビールが無くて、デンマーク産のツボルグ・ビールだけがある。ローカルワインはまるで安焼酎だ。 まずい。ちょっと口をつけるのが精一杯で、断念する。

  食事しながら、トレッキング期間を9日間から7日間に短縮する方法をナクルと相談する。 ネパール・ガンジにルドラを訪ね、ナクルの村にも行くことにしたので、日程が足りなくなったのだ。 明日はジョムソンまで歩き、明後日はジョムソンからガーサまで車で下ることにする。 翌日は3時間ずつ二日間歩く行程を一日で6時間歩きとおし、さらに一日分を短縮する。

  途中で停電になり、ソーラー・バッテリーの照明に切り替わる。暗くて地図が読めない。ナクルがローソクを持ってくるが、ローソク立てが無く、おろおろしている。 「店の人を呼びなさい」、とどやしつける。ローソクの火の下で、地図を見ながら行程を確認していく。 ナクルは通過ポイントの場所が地図上のどこにあるのかがなかなか分からない。「ガイドは地図くらい読めなくちゃダメだ」、とまたしかりつける。 少し気の毒だったかもしれない。

  ナクルは千葉の農家で、養鶏の研修の名目で3年働いた。ニワトリは最後の5ヶ月くらいの間、100羽くらい飼ったが、そのほかは農業をやっていた。 住み込みで月3万円もらっていた。残った金を持ってネパールに帰り、結婚した。妻は大学で数学を勉強中で妊娠5ヶ月。


3月25日(火) 快晴

  7時、ホテル・プラザを出発。昨夜はあまり眠れなかった。ヤク・ステーキとビールのせいで下痢気味だ。

  9時20分。カグベニを見下ろす地点を通過。64歳のフランス人男性がポーターとガイドを連れて追い越して行った。彼らは7時にムクティナートを出たそうだ。 ものすごいスピードだ。
  歩き出しは寒かったが、日が昇ってくるとドンドン暑くなる。途中でユニクロのカシミア・セーターを脱ぐ。

  12時、ジョムソンのチェック・ポイントに着く。途中の河原で僕たちを追い越したポーターは山のような荷物を担ぎ、サンダル履きで両手をポケットに突っ込み、 ズンズン歩いていく。
  警察ともう一箇所で許可証のチェックを受ける。日付などを書類に書き込んでいる。
  レストランの脇にあったパソコンでメール・チェックを試みるが、日本語の文字が全く読めずに断念。

  13時。マヒンドラというインド製ピックアップの4輪駆動車で出発。ガーサまで外国人の僕は600ルピー。ナクルは350ルピー。車中の大半を寝て過ごす。 前列に3人、後列に4人乗る。途中で学校から帰る子供がいると、運転手は無料で乗せてやる。後ろの席の客のひざの上に子供が乗っている。 定員5人と思われる車に子供を含めると10人乗ることがある。

  3時半、ガーサのフロリダ・ゲスト・ハウスに投宿。300ルピー。昨日はアウト・バだが、80ルピーだった。
  途中パンケーキを食べたが、生焼けでまずく、食べ残す。
  ガイドとポーター付大名行列のフランス人はトレッキングは3度目。これまで、危険な目には全くあっていない。

  カグベニからジョムソンまではだだっ広い河原に沿った単調な道。

  レストランの脇に置かれた、古いカセットデッキから流れる民族音楽に合わせてナクルが踊る。肩を震わせ、腰を小刻みに動かし、手をクネクネと動かす。 音楽を聞くと体が動き出す、とのこと。

  このレストランの人たちはトカリ族でトカリ語を持っているが、ナクルとはネパリで話す。10人以上座れる大きなテーブルにコタツのように布がかぶせてあり、 周りのベンチにマットレスが敷いてある。テーブルの中に火鉢を入れて、暖を取れるようになっている。
  さっき、ベンチから落ちて 「マミー」 と泣いていた子供が、若い母親にオンブされ、幸せそうに眠たげな顔をしている。

  客は我々二人だけかと思ったが、もう暗くなった7時頃に、19人のネパール人の団体が到着した。カトマンズから来て、車でムクティナートに巡礼に来た帰り。 老人ばかりのグループ。部族はばらばらで、近所の人で巡礼ツアーを企画したとのこと。

  ナクルのビジネスの計画を練り直す。日本のネパール料理レストランで働いてお金をため、それを元手に日本かカトマンズでレストランを開きたい。
  彼の家族は、おばあさん、父母、次兄夫妻、3兄夫妻、弟、妹、次兄の子供3人、3兄の子供2人、小学校の英語の先生、ナクル夫妻の17人が現在住んでいて、 次兄嫁、3兄嫁、ナクル嫁の三人は妊娠中。

  ホット・シャワーが出る、と言っていたのに出ない。苦情を言うと、「通常は左側だが、右側のバルブがお湯用だ」、という。 それではと、右を開けていつまで待って水のまま。
  昨夜のホテルでは、「お湯が出なかったら部屋代は払わないぞ」、と言ってから泊まったが、お湯は出たが、熱すぎて調節が出来なかった。 一昨日はダウン・ジャケットが必要な寒さなのに、ものすごくぬるいお湯で、シャワーを浴びるのを断念した。

  「部屋代を払わないか、ホテルを替わるか」、と言うと、ナクルが 「部屋代を払わないのはまずい」、というのでホテルを替わることにする。 荷物をまとめて9時頃にホテルを出る。ソーラーで暖めているので夜になると冷めてしまうらしい。 今度のホテルはガスで沸かしているので、丁度よいホット・シャワーを浴びることが出来た。日本にあるのと同じ瞬間湯沸かし器だ。 ロッジにある電話機は充電しないと使えない。

  ナクルたちは新婚旅行には行かなかった。いつかポカラかムクティナートに行きたいと思っている。結婚すると、村の人は近くのお寺に行く。
  隣の家に住む叔父さんは、医者にかかれなくて目の病気を放置していたため、片目を失明した。 叔父さんの借金を次兄が立て替えたが、長男の結婚式で別に7万ルピーの借金が出来た。叔父さん夫妻は酒好きのため、これも借金の原因。 叔父さんはミル (粉挽き機) をもっていて、これで月3000ルピーを稼ぐ。