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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第75回「森と海はつながっている〜崩れていく海洋生態系の話(3)」

2017年3月7日

▼ガボンでのザトウクジラをめぐって

 海洋関係の問題で、日本との関連で言えばクジラ問題がある。その火種はガボンにもあったのだ。ガボンでは、毎年6月から9月くらいにかけて、ザトウクジラが南洋から遊泳してくる。繁殖の時期なのである(写真309)。
写真1        写真309:勢い良く海面上を飛ぶザトウクジラ©Tim Colins

 ぼくがロアンゴ国立公園での仕事を開始する前、短期間、ガボン海岸部を視察したことがある。2002年のことである。その年に、ガボンの日刊紙L’UNIONに次のような記事が載ったのだ(写真312)。
写真4     写真312:ガボンの日刊紙L’UNIONに載った捕鯨についての記事©L’UNION

 日本は、中国の技術を利用して、ガボン沖のザトウクジラを年間200頭捕獲する提案をガボン政府が許可したという内容を含む記事であった。記事はトップ一面に載っており、ある意味では、スキャンダルのスッパ抜き記事であったといえる。関係者に尋ねながら、その記事の真偽の程を確認しようとはしたが、確たる情報は得られなかった。

 しかし、それを傍証的に伺わせる事実が幾つか浮かび上がった。一つは、当時、JICAによりガボンのいくつかの港町や河川沿いの町で、漁業センターの建築が始まっていたのである。設立趣旨は、これまでの地元の魚市場は狭い上に衛生面に問題があるだけでなく、新鮮魚を保存する設備もなかったため、新たに清潔で大型冷凍庫を完備した大きなスペースの魚市場を設立し、ガボンの魚資源供給の場へ社会貢献する、というものであった。

 建築中のその魚市場の一つを尋ねた。その作業員の一人に聞いたところ、「いや、これは当面は魚市場だけど、いずれはクジラを捕獲したあとの解体場所となるんだ」と証言した。捕鯨基地設立の一環だというのだ。これは、L’UNIONの記事と何らかの関連があるのであろうか。

 その後、ガボンの水産関係筋から、日本政府とガボン政府との間で、数百ページに及ぶ漁業協定が結ばれ、その中に、捕鯨に関する記載もあったという情報が得られた。その文書を直接手に取って見ることは叶わなかった。しかし、JICA事業は、日本政府が「国益」推進のための手段に使われることはよく話に聞いていたため、あるいは、「漁業センター設立プロジェクト」の見返りとして、ザトウクジラ捕獲を狙っていたのであろうか。

 同年4月から5月にかけて、山口県でIWC国際捕鯨委員会が開かれることになっていた。日本側の主張は調査捕鯨で、いずれかつて隆盛を極めた商業捕鯨を目指すというものであった。ぼくの2002年の短期訪問を終えて、帰国の途に就く時、ガボンの知り合いであった政府関係者と近くの席になった。偶然である。行き先は、日本だという。「日本政府に招待され、IWCに参加するんだ」と。東京での宿泊先を聞くと、「日本政府は帝国ホテルの部屋をすでに確保していると聞いている」と彼は語った。

 IWCにガボンの要人を招き、捕鯨決議で日本側の主張に投票させる意図でもあるのであろうか。数あるホテルの中で、帝国ホテルのような高級ホテルに宿泊してもらう理由はいったい何なのであろうか。ちなみに、彼は政府関係者ではあるが、決して高級官僚に相当する立場ではなかった。

 日本に戻ったぼくは、JICA本部を訪れ、進行中のガボンでの「漁業センター設立プロジェクト」の予算書と会計報告書を探した。見当たらなかったので、係員に尋ねたところ、「それはここにはないんですよ」と通達された。その後、開示請求で資料を求めたが、得られた資料は黒のマジックで多くの数字が消された表だけであった。

 現地で建築中の漁業センターを見た時、その大きさや資材、そして建築にかかる現地の輸送代や労働代をおおまかに概算してみたが、どんなに多く見積もっても数億円には届かないだろうと見積もった。それまで建築関係の予算見積もりの経験があり、資材の現地価格に詳しかったぼくには、それくらいの予算額推定は可能であった。ところが、建築中の現地スタッフの話では、10億円を超えている事業であるという。そうすると、残りの6-7億円はいったいどのように使われているのであろう。

 クジラ捕獲の取引を成立させるために、ガボン政府への献金もあったのではないかと、懐疑的になってしまうのは自然の流れであった。ぼくの知り合いであるガボンの政府関係者が、山口でのIWCに招待され、しかもその会議を前に東京の帝国ホテルに宿泊させるお金は一体どこから出たのであろうかという疑問とも重なる。

 その後、2003年半ばよりぼくはロアンゴ国立公園の管理に携わるようになった。2008年からは内陸部のイヴィンドウ国立公園の管理にも関わった。その年月の間に、ガボンのあちこちの港町に、JICAによって建設された漁業センターの行く末を見守っていた。

 その新規漁業センターのうち、ある場所では魚市場としてほとんど利用されていなかった。魚類の売り手たちは、不衛生ではあるが昔の古い市場に戻ったのを目にした。理由は簡単である。JICAが誘致した大型冷蔵庫は、JICA職員が去ったあと壊れ、役に立たなくなったこと、そしてその漁業センターでの魚市場を利用するにはセンターの維持費として高価な場所代を支払わなければいけないこと。それらは、従来の売り手にとっては、なんの得にもならないことだったのである。

 日本国民の税金によって作られたガボンの漁業センターの顛末であった。大金を使っての、いったい何のための建築であったのか。

 そんなある日、ガボンの日本大使館から連絡があった。日本から専門家が来ており、長年ガボンの野生生物保全に携わっているぼくに会いたがっているという。マルミミゾウの生息状況を詳しく知りたいという話であった。首都に出る所要があったので、大使館の方の仲介で、ホテルのロビーでその専門家に会う機会を得た。

 相手はややご高齢の3人で、交換した名刺を見ると、いずれも海洋関係の教授ないし専門家であった。なぜ、海洋の専門家がマルミミゾウのことを聞きたがっているのだろうと、いぶかしげに思いながら話を聞くと、「いま、われわれは将来の象牙取引の可能性について、ガボン政府と話に来たのです。そこで、大使館からガボンのマルミミゾウのことに詳しい西原さんを紹介され、お呼びしたんです」と。

 「現時点ではマルミミゾウの確実な生息数データは手元にないが、象牙目的のマルミミゾウへの密猟は日常的に起こっており、象牙の密輸も頻繁に起こっている。ガボン国内の密猟対策や密輸を防止する体制が十全にできていない今の段階で、ガボンの象牙の取引を始めるということはあり得ないし、それは起こってはいけないことだと考えます」とぼくは説明した。3人の方は、それ以上とくにぼくに何かを尋ねることなく、会合はそれで終わった。

 結局、なぜ海洋の専門家がマルミミゾウの象牙取引の件に関わっているのか、不明のままであった。彼らは2002年以来引きずっていたかもしれないガボン沖でのクジラ捕獲の件で、ガボン政府に再交渉に来たのかと思ってしまうのは、ぼくだけなのだろうか。

 不可解なことが多い。

 
▼鯨食は日本の伝統文化ではない

 クジラに関する議論は、長年に渡り、賛成派も反対派も幾多もの議論がなされてきたので、ここでは深入りしない。

 ぼくの率直な疑問は、四つだけである。

 一つ目は、なぜ日本の鯨類頭数調査で、捕殺による手法を継続するのかという点である。捕殺により、身体の一部を精細に見ることで年齢推定が可能である、また解体することで胃の内容物からクジラの食性を明らかにすることができる、それはわかる。しかし、調査方法は進化するものであり、IWC科学委員会で他国の研究者が述べているように、捕殺無しでの頭数調査は今や可能なのである。ではなぜ日本は捕殺による調査を継続する理由があるのであろうか?捕殺後の鯨肉供給を前提にした調査ということであろうか。今の時代、それに見合うほどの、鯨肉需要があるとはまったく思えないのである。

 二つ目は、水産庁を始め日本政府は、「鯨肉食は我が国の伝統文化だ」と主張し続けている点である。これは理解に耐えない。日本のごく限られた地域での、生業捕鯨として伝統的なクジラ猟の歴史はある。しかし、これは日本「全体」における「伝統」あるいは「文化」ではない。ましては、南氷洋などに捕鯨船を送り出し、大量のクジラを捕獲し始めたのは、高度成長期時代であり、数十年前のことである。これは、戦後の食糧危機に基づき、タンパク源補給のために大々的に始まったのであり、長い歴史を持つものではない。ぼくも20歳くらいまでの頃まで、当時の名残であろうか、レストランなどで「竜田揚げ定食」は珍しいものではなかったが、いまではほとんど見られない。

 こうした政府の主張は、まるで捕鯨と鯨肉需要が国民の総意であるかのような印象を与える。しかし、こうした歴史的事実から、それを納得する国民はいったいどれほどいるのであろうか。政府は、捕鯨は「国策」と強調し続けるが、ごく一部の日本人を除けば、国民の意見を代弁しているとはとても思えない。そして、南氷洋などへの調査捕鯨は一度に当たり、20億円以上の経費がかかる。これを税金から使う事自体、国民の同意を得ているとも考えられない。

 日本の捕鯨と鯨肉食は、イヌイットなど先住民族に見られる「生業捕鯨」とは明らかに異なる。先住民族は、それこそ民族の長い歴史の中で、生存に必要だから、必要な分、捕鯨してきたのである。こうした点は、鯨類の保全とのバランスの中で、IWCでも考慮されている。当然のことである。しかし、家畜タンパク源の豊かな今の時代の日本で、捕鯨が「日本民族の生存のために不可欠である」と言うことを認めるのははなはだ馬鹿げていることである。日本政府は、「伝統」や「文化」という言葉を巧みに操り、「生業捕鯨」でなく「商業捕鯨」であるにもかかわらず、あたかも捕鯨と鯨肉食が、そうした先住民族と同様、日本全体の古来からのものであると国民を錯覚させているようにも見える。

 三つ目に、「クジラが増えすぎているから、人間の食資源としての魚類が減少している」という理屈で、日本政府は捕鯨を推奨する。クジラを間引くことが魚資源の確保に役立つのだから、捕鯨は正当化されるべきだという主張である。しかし、海洋生態系のメカニズムはまだそれほど解明されておらず、ある種が増えたから別の種が減るというような簡単な構図ではない。多種多様な海洋生物の複雑な生態系ネットワークの中でクジラも生存しているのだから、こうした視点を抜きにした議論はありえない。人類よりも長い進化の歴史を持つ鯨類は、これまで、海洋生態系のバランスの中で、もちろん「間引き」などもなしに生存してきたのだ。この事実を無視してはいけない。

 さらにいえば、すでに述べた違法トロール漁船による海洋資源の捕獲(連載記事第74回)は、それこそ魚類の減少に関わっている可能性もある。そうした点への分析や検討も必要になってくる。そうした査定もなしに、すべてをクジラに責任を追わせるのは妥当ではない。

 かたくなで論理的な根拠の薄いこうした日本政府の主張は、欧米への反発もどこかにあるのであろう。日本はクジラだけでなく海洋資源の食利用は長い歴史を持ったものだから、他国の人間にとやかく言われる筋合いはないというのである。欧米もかつては、鯨油目的で大々的に捕鯨をやってきたではないか、なぜそうした彼らが今、日本を非難するのかと日本は自国のプライドを維持しようとする。ましてや、生物の保全というか概念など欧米由来であり、我が国には我が国なりの自然観があるのであるとまで述べる。

 しかしここで指摘すべきは、日本は海洋生物を食資源としかみなしていないこと、海洋生態系の中での生物であるという視点が完全に抜けているという点である。また過去の他国によるむやみな捕鯨は決して忘れてはいけないが、いま現時点でクジラの保全をどうするか、それをIWCなど国際的な場で検討し決定していこうという国際的コンセンサスのあり方も無視してはいけないのである。いまだ、日本は精神的な「鎖国」を続けていくのであろうか。

 鯨肉は牛肉などほかのタンパク源に比べ栄養的なバランスも良いと強調される一方、鯨肉に含まれる水銀など有害物質についても考慮されなければならない。一時期、これに関する議論が盛んであったが、さらに科学的事実に基づき、鯨肉の食の安全性について検討されなければならないであろう。仮に鯨肉を学校給食に取り入れることが本当に必要不可欠であるという国民全体の合意ができたにしても、この食の安全性の問題の検証は回避できないことである。

 最後に、なぜ、今日まで、「捕鯨推進派」と「鯨類愛護派」との対立が継続しているのかという点である。しかも、それは、特に「愛護派」の方から尖峰を切った感情的対立にまで至り、まっとうな議論の支障となっているように見受けられる。 「クジラはかわいい」「クジラは賢いから殺してはいけない」「クジラを殺すのは残忍だ」などに始まる愛護側の主張は、科学的なあるいは生態学的な根拠に基づいたクジラの保全への解決にはつながっていない。個人的感情の前に、まずは科学的調査に基づき生息頭数の精査をする必要があるだけでなく、海洋生態系の中におけるクジラの生物としての生存・あり方をも検討しなくてはいけない。クジラは人類よりもはるか以前から存在し進化してきた生物である。人類の個人的な感情で保全を議論するような対象ではない。

 メディアはシー・シェパードのような過激な「反捕鯨運動」を取り上げ、逆にそれは日本の捕鯨船団の安全にとって脅威だとの話にすり替えられ、反捕鯨派への感情をさらに煽り立てている。しかし、その一方で、シー・シェパードのような強引な手法による捕鯨阻止活動は、なんの解決策も産んでいない。むしろ、「捕鯨推進派」と「鯨類愛護派」との対立を助長しただけのようにも見える。

 さらにその上で、上記で述べたような先住民族の生業捕鯨を考慮しなくてはいけない。「愛護派」はそうした生存のための捕鯨に携わる先住民族も、野蛮で残酷な人間だと評するのであろうか。そう主張している人間も、日常生活で直接目にはしていないだろうけど、生物としての家畜や魚類、野菜や果実など植物を、いわば「殺して」食べているということを忘れてはならない。そうした行ないは、残忍ではないのであろうかと問いたい。こうした先住民に関する課題は、捕鯨派・反捕鯨派を越えたところでの、感情論を抜きにした議論が必要なのである。

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