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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第81回「動物園での保全教育一考(1)」

2017年5月9日

写真1             写真322:動物園のゴリラ©西原智昭

▼希望の灯としての動物園

 ぼくはもともと動物好きでも何でもなかった。子供の頃、動物園に行った記憶はあるが、そこで動物を見て興奮したなどといった経験はない。

 長い年月が経って、動物園にいま関心があるのは、「生きた動物」を保持するいわば博物館であり、野生生物に関する保全教育を実践していくのに、最もふさわしい教育機関の一つになり得るとの希望からである。来園者の多くは、程度の差はあれ動物に何らかの関心を持っているので、教育普及の対象者として始めからお膳立てされていると言ってもよいのである。

 野生生物の世界の驚異や現実・危機を理解するには、その野生の現場に赴くことが一番確実な方法であるにちがいない。しかし大多数の人はそのような機会を持つことはできない。映像や書籍で知ることはできても実体験は困難だ。しかし動物園では、まさに「生きている」動物たちを間近に見ながら動物に親しみをもち、そのうえで動物の保全やその重要性を理解する、さらには、その生息地に関する情報も取り込めば実践的な環境教育が可能になるはずである。動物園は飼育されている生物を通して、訪れる人々にとって野生生物の世界に接する窓口としての重要な役割を担える場所となり得る。

 動物園は元来、見世物レベルにせよ、学術的探求にせよ、人間の好奇心を満たすところであった。来園者も通常は見ることのできない動物を見ることができる、リクリエーション的な場所として動物園を利用してきた。ところが、近年の環境問題や野生生物の危機などを背景に、動物園の存在意義があらためて問われるようになり、1980年の、IUCNにより設定された世界環境保全戦略では、動物園の役割として“環境教育”と“種の保存”がうたわれてきた。

 それから、早約40年の月日が経とうとしている。

▼動物園の4つの役割

 日本動物園水族館協会も、世界動物園水族館協会の基本方針に則り、動物園と水族館は、1.リクリエーションの場、2. 生物の研究の場、3.生物の繁殖の場(種の保存)、4.教育の場という4つの方針を掲げている。

 土日や休日に、家族連れなどが憩う動物園や水族館には、動物などを見ることで日常から開放され、「癒やし」を求めるだけでなく、「リクリエーションの場」となるのは然るべきものであろう。また、主に園館スタッフにより、飼育下ではあるが園館に既存している生物の「研究」をすることは可能であり、また「繁殖」をさせることも可能である。

 しかし、十全な「教育の場」となっているかどうかはまだ確信したことは言えない。欧米の多くの動物園などでは環境教育あるいは保全教育に対して、さまざまな工夫を試み、すでに実践段階で成果をあげ始めているところもある。ところが、どうも昨今の日本の動物園は、その本来の目的に真摯に向かっているようには思えない。

 ひとつは、野生生物の保全に貢献するような十分な財政は組まれていないという実情がある。そのため、現実的には動物の飼育でほぼ手一杯であり、そのため専属のフルタイムの教育者が活躍できるような場になっていない。リクリエーションの場であるという面がより強調され、場合によっては珍獣・奇獣を入手しそれを展示することで、あるいはショーなどのエンターテインメントを重視することで入場者の数を増やし、利潤を優先するといった旧態依然の体制が色濃く残っているのは否定できない。

 その上、日本の動物園、特に公的動物園の場合、管理職の役職についている人は行政官出身であることが多く、必ずしも野生生物やその生息地について理解のある人であるとは限らない。基本は「公園管理事業」であり、基本的に土木事業の一環で園館は管理されているのである。通常の「公園」とは異なり、「生きた」生物を扱っているため「飼育費」の多大な費用がかかるため、それを補完するためにも、入場者の数を増やす方針が重視され、結果的に教育よりはアトラクションが先行する。

 飼育員による「ガイドツアー」もあるが、多くは、飼育されている生物の個体の紹介に留まる。その生物種全体のことや、野生での生息地のことなどが語られることは少ない。まるで、動物園の動物はペットであるような紹介である。また動物園での保全教育の方法やそのあり方について,システマティックに学べる機関もテキストも日本では見当たらない。来園者にとって魅力的な情報提供の場や手段を作っていく前提として,適切で正確な情報を収集していく努力も乏しいように思われる。

 アトラクションは挙げれば切りがない。水族館のドル箱であるイルカのショーや、言葉をまねるヨウムのショーについてはすでに連載記事(第76回第78回)で述べた通りである。また、「行動展示」と称して、あたかも野生の動きを見せるようなタイプもあるが、実はそれが逆に動物にとってのストレスのなっているという事例も上げた(カバの事例:連載記事第76回)。

 さらに、「夜の動物園(あるいは水族館)」という催しもある。通常、こうした園館で生物を見るのは日中であるが、時には趣向を変えて夜にその展示を見せるというイベントだ。夜行性生物であるのなら展示手法を工夫すれば夜の展示も不可能ではないが、昼行性生物はすでに寝に入る時間帯であるのに、余計な光や園館のざわめきの中で、睡眠を妨害される。しかし、園館側は生物の立場に立たず、「これまで人気のあった催しだから今後も継続する」という利潤優先の考えでイベントを強行する。

 動物園にとって、アトラクションはどうも優先事項のようである。

▼動物園での動物の繁殖の意義

 「繁殖」は園館にとって重要な使命の一つではある。しかし、繁殖させる意義をほんとうに理解している園館スタッフはどれほどいるのであろうか。というのも、動物園における繁殖の目的も問わないまま、まるで「繁殖第一主義」のような傾向が見られるからだ。

 トラが一頭しか保持していないある動物園では、繁殖目的で、別の動物園からつがいの候補になる別のトラを連れてきた。しかし、この新規に移入されたトラは間もなく死んでしまった。健康上問題があったからである。このトラを移送する前に、送り出し側の園、受け入れ側の園ともに、この生き物への十分な配慮があったのであろうか。移送すること自体、動物にとってはすでに負荷でありストレスの原因でもある。それだけのリスクを背負っているのに、「ペアを作って繁殖させる」ことのみが先行した結果であるように思われる。結局、繁殖させて、新生児を作り、その「名前を募集」するというイベントも行ない、メディアの関心も引き、果ては「かわいい」新生児を展示して多くの来園者を得たいからなのであろうかと思ってしまう。

 チンパンジーの新生児が生まれたある動物園の話では、妊娠後のメスのチンパンジーの扱い方、出産前に注意すべきこと、出産後のケアなど、複数いる関係者の間で情報が共有されず、十分な知識や技能もないまま妊娠と出産が進行したと聞く。こうした動物園にはいったいプロの獣医がいるのであろうかと勘ぐる。また、あらかじめ出産の経験のある他園などからの十全なノウハウは事前に揃っていないところから見ると、やはり園として、単に繁殖が優先という印象を拭えない。

 「行動展示」も「夜の動物園」も「繁殖による新生児の展示」も、場合によっては、人間の利用目的が先行し、“生き物としての”動物を考慮していないという本末転倒な事態になっていることを認識しなければならない。相手は、正真正銘の「生き物」なのであり、人間にとっての「道具」ではないのである。

 繁殖は、「種の保存」という動物園の大きな目的の一つに合致していることかもしれない。しかし、問題は「繁殖させてどうするのか」ということが真摯に議論されていないように見受けられる。鳥類のごくわずかな稀少種に関しては、飼育下で繁殖を目指し野生に復帰させることはできる。これは、その希少種を地球上から消失させないという重要な意義を持つ。しかし、これは極めて例外的な事例であることを理解しなければならない。

 たとえばゴリラである。

 野生生物の国際取引条約の取り決めにより、ゴリラなど絶滅の危機にある動物の輸出入は全面禁止となった。そのために、ただ見せるだけの動物園から、「見せてふやす」動物園へと変わっていく必要があると考えられている。 “飼育下繁殖”あるいは“ズーストック計画”といわれたものだ。動物園での種の保存と生物の展示を通して、「生態系保護」を訴える環境教育や野生生物保全教育の重要な役割を担えるというのがその理由である。

 しかし日本の動物園で試みられてきたゴリラのズーストック計画には、現実的な飼育技術や飼育条件の改善を待ってからでも遅くなかったのでではないかと思われる節があった。下手をすれば、ゴリラ本位でない繁殖計画にもなりかねないようであった。第一に、繁殖を目的とした動物園から動物園へのゴリラの頻繁な移動、まったく見知らぬ同士のゴリラの一方的な対面は、ナイーブなゴリラにとって多大なストレスを与えているに違いないことは、長年野生のゴリラの研究をしてきたものからの揺るぎない印象である。

 古い話ではあるが、たとえばズーストック計画の結果として生まれてきたゴリラのモモタロウの事例を紹介しよう。2歳になった上野動物園生まれのオスゴリラ・モモタロウは元気に育ち、2002年お母さんゴリラ・モモコの「実家」である千葉動物公園に、お母さんと一緒に移動した。当時「アイドル的な存在」であったといっていい。

 ゴリラのグループは野生では普通、1頭のオスと何頭かのメス、そしてその子供たちから構成される。子供は約3歳までは母親とともに、それ以降はグループの中で遊びながら成長していく。7歳くらいになるとオスはグループを離れ、同年代のオスゴリラからなるグループに入る。ここで何年か「社会的修行」を経て、一人前の大人になっていく。やがて放浪生活ののちにメスを獲得し、自分のグループを形成する。

 オスゴリラの成長には、たとえ野生でなくても、こうした「社会的過程」が必要だ。しかし、モモタロウの父親ビジュは、モモタロウの生まれる前に上野動物園で死亡した。同年代のゴリラも日本の動物園にはいない。とはいえ、ビジュの提供者であり飼育ゴリラの繁殖に幾多も成功しているイギリス・ハウレッツ動物園のゴリラ飼育課もいうように、仮に繁殖計画のためとはいえモモコを引き離して、父親も遊び仲間もいないモモタロウを今の時点で単独飼育していくことは言語道断であったといえる。

 動物園は、モモタロウのような生の姿を身近に見せることを通じて、絶滅の危機に瀕するニシローランドゴリラの実態を一般の人にも学んでもらう格好の場所である。しかし、まず必要なのは、“生物としての”モモタロウのゴリラとしてのあり方だ。それには、彼自身が必要なことを学びながら成長していく場が不可欠で、そうした過程があってこそ、ある程度社会性をもった立派なオスゴリラに成長し、環境教育に貢献し得る存在となるのだ。モモタロウは人寄せパンダのようなかわいいぬいぐるみ的存在ではなく、“生きている動物なのだ”という原点をもう一度振り返りたい。

 繰り返しであるが、「繁殖の場」あるいは「種の保存」とはいっても、繁殖させたあと野生には戻すことができる種は稀であることを理解しておく必要がある。上記のゴリラの事例では、飼育下で繁殖したゴリラの群れを戻せるに見合うような植生を持つ野生の場所はもはやないと言ってよい。仮にあるとしても、そこはすでに他の野生ゴリラの群れが複数存在し、その生態系の中で長大な年月を経て生態的・社会的バランスを取りながら生息している場所である。そこに、人間の勝手で、新たなゴリラの群れを放すことはできない。すでに人間の飼育下で育っているので、かなり厳格な医療チェックを施さないと、野生の地ではそうしたゴリラを通じて人間由来の病原菌を持ち込みかねないという理由もある。

 ここで、園館内繁殖の意義は、野生群への保全とは全く無関係だと気付く。だからこそ、園館内での繁殖はいったいなんのための目的で実施するのか、あらためて真摯に議論すべきであろう。「保全教育」に役立てたいのであれば、繁殖の前に、繁殖に関するプロの獣医を配置するだけでなく、繁殖個体を通じての保全教育を実施していくための人材や資金、教材など十全な準備を整備しなければならない。そうしたプロセスがないのなら、繁殖のみが優先し、結局「かわいい」新生児をアトラクションの道具に利用するに留まるであろう。

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