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【NPJ通信・連載記事】ホタルの宿る森からのメッセージ/西原 智昭

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第83回「動物園での保全教育一考(3)」

2017年5月23日

▼地球環境保全への見本になっているか

「保全教育」の実施と、それより高い効果を目指すことには、奇跡も偶然もない。関係者の地道な努力と実践、試行錯誤があるだけである。

野生生物の保全を目指すために大事なことのひとつは、その生息地保全である。地球上のあらゆる自然環境が破壊され、それが消失の途にあることが問題である。そうした地球規模の課題に関心をもつだけでなく、自身の日常生活においてもそれが強いつながりがあることも、「保全教育者」であれば確認しなければならない。

身近なところでは、適切なゴミ処理法、自動車やエアコン、電気・エネルギーなどの必要最低限の利用法、あるいは再生紙やFSC認証紙の使用などによって、環境負荷を逓減できるであろう。政府の方針云々の前に、各個人の毎日の生活における微々たる貢献があれば、その積み重ねで自然環境保全の方向を目指すことも不可能ではない。

問題は、「保全教育者」を自称している、あるいは「保全教育」を謳っている園館のスタッフが、自らそうした努力をしているのかという点であろう。生息地保全あるいは自然環境保全を目指しているのなら、その当人がまず見本を見せ、来園者にその模範を示すべきであると考える。

教育というと「子供向け」という固定観念があるが、こと環境保全に関しては大人も巻き込まなければならない。化石燃料や木材製品、海産物など自然界由来のものを購買、利用、消費している主体は、ほかでもなく大人だからである。それが地球上の野生生物の生息環境を脅かしているのである。ところが、多くの大人はそのことに気づいていない。だからこそ、この分野の教育のターゲットは、大人にも広げていかなければならない。そして、その大人が子供たちに見本を見せるべきなのである。

通常教育の対象となっている子供たちが大人になる10年後に、健全な地球上の自然環境が残っているのかどうかは、いまの大人の生活形態や行動様式次第なのである。

さらに、園館における「エサ」の問題も忘れてはいけない。ある動物園のアザラシへのエサの状況を聞くと、昨今のエサとしてのホッケは小柄であるという。以前のような大きなホッケは値段が高く、動物園の予算では購入できないらしい。これが意味するところは、乱獲により大型のホッケが減り、入手しづらくなったことだけではなく、小さなホッケを動物園が購入し続けることは、本来なら大きなホッケに成長する個体群を大きく間引きし続けている可能性を示唆している。

動物園はどういう目的であれアザラシを飼育し続けたい。その飼育下のアザラシを通して、野生のアザラシとその生息する海洋生態系の保全について教育していきたいという希望がある。ただそれを維持するためには、その海洋生態系の中のホッケの生息数のバランスを崩すかもしれない負荷をかけている。保全教育を目指すべき動物園が自然環境の保全に負荷をかけようとしている。

いったい動物園はなにを目指しているのだろうと思えてしまうのはこういう点にある。エサやりが地球環境に影響を及ぼしているという事態も園館内で議論されないのであろうか。そこまでして、園館を維持し、飼育動物を繁殖させ、継続していく意義は果たしてどこにあるのであろうか。

その一方で、環境省からのお達しで、間引きされたゼニガタアザラシが当面の収容先がないということで、スペースに限界のある動物園に引き取られる。ゼニガタアザラシが増えすぎたため、魚類が減少している、そのために間引きされたのである。しかし、魚類が減少しているのはゼニガタアザラシのせいなのであろうか。似たような議論はクジラの件ですでに連載記事第75回で記載したが、魚類の減少の原因の是非を真摯に議論しないまま、動物園はゼニガタアザラシを収容し、その飼育のために小さいホッケを購入する。

また日本は地震の多い国である。これは自然災害であり、だれにも止めることはできないし、ほとんど予期できない事象である。程度によっては動物園にも被害が及ぶ。そして、その動物を救済し支援する動きが見られる。それは「動物園の動物の命を守る」点から当然重要な活動であることは確かである。

しかし、震災による影響は計り知れない。6年以上の月日を経た2011年の東日本大震災でもまだ多くの方が避難生活をされている。そうした中で、動物園における震災対策は進んでいるのであろうか。毎回話題になり、「動物園の動物を救う」ことがまるで美談のように語られる。否、もし肉食獣が震災の影響で外部へ逃げ出したらどうなるのであろうか?多くの場合、処置は「射殺」である。これは、「動物園の動物を救う」ことと相反することではないのか?

地震国における動物園のあり方は真摯に議論されなければならないであろう。予算がないから、安全のための獣舎の改築・修繕はできないと言っている場合であろうか。もっとも負担がかかるのは、狭い空間の中で大地震が起こっても、まるで身動きのできない動物たちであることを忘れてはいけない。結果、死を招くこともあるが、そうでなくても動物が味わうであろうその心理的な恐怖には計り知れないものがあるにちがいない。

 
▼薄い危機感

こうした一連の「悪循環」をもたらす要因の一つは、「保全教育」と称しながら、生態系や野生生物種への危機感が薄く危機感の原因をたどらないことにある。

たとえば、ぼくが動物園で講演をする。懇親会では、「素敵なところですね。私も是非行ってみたい」といったような感想を、園館スタッフから受けることがしばしばある。ただ、同じ講演でぼくは「素晴らしさ」だけでなくその「危機」についても紹介している。にもかかわらず、「危機感」が薄いのである。

マルミミゾウに関する講演では、ぼくの携わっているコンゴ共和国のある地域での頭数が、10年前は約一万頭、5年前は五千頭まで半減しているという事例をよく話題として提供する。理論的にはその絶滅も近いですよねと強調する。時間は切羽詰まっているのである。

日本という風土では、多くの方には危機感を日常的に知り感じることが少ないのであろうか。

懇親会の席で、「私も西原さんのような仕事に就きたいです」と話しかけてくる方もいる。一見すると、アフリカの地で長年野生動物を対象に、しかもその保全に関わっているというのが先進的で格好いい職に見えるのかもしれない。ただ、多くの場合ぼくはその職をあまり勧めないのである。日常的な危機感をも背負う仕事だからだ。

それは、政情不安定とか熱帯地域の伝染病、ネットや電話にも容易にアクセスできない、水道や電気もない不便な生活環境だということだけではない。最大の懸念は、NGOとして常態的に資金難であるという面である。資金は助成金依存である。その助成金獲得のための申請書づくりと定期的な報告書作りに追われる。そうした作業は、多くの場合、英語・仏語であるということ。しかも決められた期間に具体的な成果を上げなければならない。それがないと、次期の助成金への確約はなく、つまりは自分のクビもかかっているという日常なのである。

そうした意味で危機感が多く、生活の安定や保証の確保をぼくから提供できないのである。それゆえ、ぼくのような仕事を勧めないのである。本当に、そうした何も保証のない世界に生きる覚悟があるのかどうかとまずは問いたい。

ただ、その一方で、申請書を作り、あるいは報告書を作る作業というのは、いったい自分は何をすべきなのか、できるのか、したいのか、その危機感や具体的な成果につなぐための具体的な方途やビジョンを考えるのによい機会を提供する。「なんとなく」といった世界は通じないからである。

 
▼動物園への伝言~先住民に学ぶ

まだ現在進行中で辛うじて森に依拠して生活しているアフリカの森の先住民も、やがては文明化の影響を受けた他の先住民族と同じ道を辿るのであろうか。熱帯林の消失、野生生物の生存危機、そして近代教育の影響などにより、ひょっとしたらむしろ、彼らの伝統文化が喪失するのは、熱帯林の野生動物の絶滅よりも早いかもしれない。しかし先住民が先住民として存在しなくなれば、いずれにせよ、遅かれ早かれ熱帯林も野生動物も残ってはいないであろう。なぜなら、すでに述べたように、野生生物の保全活動はできない状態になるからである。

動物園は「なんのために動物を飼育しているのか」という原点としての疑問に答えるためにも、単に対象飼育動物のことだけに関心を寄せ教えていればよいという時代は終焉させなければなるまい。また野生生物の情報も、一部を隠蔽するなどということなく適切に伝えていくべきだ。そしてさらにその上に、われわれは先住民からもっと真摯に自然のことを、野生生物のことを、自然界の永続的な利用についての知恵を学ぶべきことを、動物園も知らせしていく必要がある。

野生生物の絶滅や先住民文化の消失など手遅れにならないうちに、危機感と緊迫感を持って取り組むべき課題である。

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