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オリンピックの意義
(オリンピックはあくまでも平和の祭典、スポーツの
祭典に非ず)

寄稿:西村 修一(馬術家・エッセイスト)

2017年7月5日

まえがき

 2020年、東京オリンピックが決定した。私は14年前からある業界の月刊誌に、「五輪に未来はあるか」と題して、国威発揚・経済効果・勝利至上主義を主たる目的とする「近代オリンピックに未来はない」と書き続けてきた。
 しかし、決定した以上、何としても成功させなければならない。ただ、二度の核の洗礼を受け、平和国家を宣言している日本が開催するオリンピック、それは近代オリンピックの創設者、ピエール・ド・クーベルタン男爵の理想とした「世界平和のための祭典」の復活以外にない。それが彼が死の間際につぶやいた「もしも再びこの世に生まれたら、私は自分の創ってきたものを全部壊してしまうだろう」と言った無念の思いを晴らすことであり、その彼の思いを引き継ぐことによって2020年の東京オリンピックは、真の「平和の祭典」として、後世にその名を止めることになると信じている。

(一) オリンピックの起源

 紀元前8世紀、エリスのイフィトス王は、絶え間のない都市国家間の紛争を憂いて、せめて一時的にもせよ、この争いを中止させる手だけはないかと、切なる願いを込めてデルフィの神殿に詣でた。すると、「スポーツ(技を競い合う競技スポーツではない)を主としたイベントを開催することで、都市国家間に平和をもたらすことができるであろう」との神のお告げを聞き、平和のための一つの手段としてスポーツを取り上げたのだ。
 事実、古代ギリシャではオリンピック期間中、高度な政治論が戦わされ、都市国家間での平和同盟の条約が交わされた例も少なくない。
 また、オリンピック期間中、スパルタカスがペロポネス戦争のとき、その戦いを中断しなかったとして罰金を科せられたという記録も残っている。
 ギリシャ語で「エケケイリア」とは刀の柄にかけた手を、もう片方の手で抑えて刀を抜くのを思い止めるという意味があるところから「エケケイリア」は「オリンピック休戦」を意味する言葉となっている。
 しかし、その祭典も回を重ねる毎に、お互いの技を競い合う競技スポーツが主流となり、勝者には郷土の英雄として大きな特典が与えられるようになり、これが選手の買収や八百長などの腐敗を招き、紀元前四・五世紀の頃より祭典は次第に現代の如く見せ物化し、さらにギリシャが異教国ローマの支配下に入るに及び、民族的な行事としての精神も失われ、393年を最後にテオドシス一世の勅命によって約1200年続いた古代オリンピックは「競技スポーツ」という魔物によってその幕を閉じることとなった。
 スポーツが今日のごとく、勝ち負けを争うものであったら、デルフィの神様は決してスポーツを紛争解決の手段に選ばなかったはずである。
 この古代オリンピックの精神を受け継ぎ、世界の平和を願ったクーベルタンは古代スポーツの国際化と、それによる国際間の理解増進と平和を目的として公平と平等を旗印に、1896年オリンピック発祥の地、ギリシャのアテネにおいて近代オリンピックを復活させたのだ。

(二) オリンピック憲章

 「オリンピック憲章に基づいて行われるスポーツを通して、青少年を教育することによって平和でより良い世界づくりに貢献し、スポーツ文化を通して、世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通して互いの理解の度を深め、友情の環を広げることにより、住みよい社会を作り、ひいては世界平和の維持と確立に寄与することをその主たる目的とする。」
 この文に見られるごとく、近代オリンピックの主目的は、あくまで「世界平和の維持と確立に寄与することであり、それ以外の国威発揚でも開催国の経済効果でも、まして勝利至上主義に徹することではない。
 お互いの技を競い合う競技スポーツの申し子、勝利至上主義によってもたらされる弊害は計り知れない。すなわち、それによってスポーツマンシップやフェアプレイの精神は失われ、ドーピング問題は世界反ドーピング機関(WADA)がいかなる対策を立てようとも絶対に根絶は不可能である。
 尚、今後2020年に向けてメディアはあらゆる機会をとらえてスポーツを取り上げると思うが、私がこれから言わんとするスポーツは、あくまで純粋なスポーツの原点、オリンピックで実施するスポーツで競技スポーツの世界とは全く異質のものである。ただ、現在のオリンピックで世界の若者たちが日頃の鍛錬の成果を十二分に発揮して、人間業とは思えぬ妙技を披露する姿は人々を魅了し、感動と感激と、そして勇気を与えてくれるのも事実である。
 3年後の東京オリンピックに向けて、橋本聖子選手強化本部長は、「メダル数が目標に達しなければ、如何によいスポーツ環境が整備されようと成功とは言えない」と選手強化部長としての立場を明確にしたが、この勝利至上主義に追随する無知なスポーツ関係者や未熟な指導者によって何万、何十万人もの若者が大事な一つしかない人生を溝(どぶ)に捨てていることも事実である。
 競技スポーツは未熟な指導者にかかると、練習すればするほど下手になるものだ。個人的なことを言うと、私の師匠、昭和の間垣平九郎と言われた(馬術金メダルの西中尉の先生)遊佐幸平氏は、常に私に「おれ以外にもう一人、○○君にも教われ、そうしてその両方のいいところを盗め、そうしないとおれの上にはいかれない」と言ってくれていたことを思い出す。

(三) スポーツと体育

 スポーツの語源はラテン語でDisportareの略でDisはAway、PortareはCarry、運び去るということ。要するにスポーツとは我を忘れて熱中するということ。仕事を離れて遊び戯れることであり、決してお互いにその技を競い合ったり、規則を設けて無理矢理に勝ち負けをつけるものではない。
 しかるに、オリンピックにおいては、歪められた国家意識と、無理矢理に結びつけて誤った国家観念の昂揚の手段として利用され、ラジオやテレビ等ではアナウンサーが吠え、聴衆はわめき、国家の存亡をその勝敗に賭したかのごとき醜態を演じている、と嘗て(かつて)慶應義塾大学の池田潔教授は、その著書「自由と規律」の中で述べている。要するに純粋なスポーツとは、いみじくも楢崎通元老師の「なすことの一つ一つが楽しくて 命がけなり 遊ぶ子供ら」の句のごとく、遊ぶということそれ自体、喜びであり、自由であり、満足であり、そして命がけなのだ。そしてまた、遊ぶという行為は、子ども自身の心象や興味を満足させようと、全能力を振り絞って真剣に、まさに命がけで自由な運動、自由な活動を示すものであり、その行動自体は無目的で誰に要求されたものでも、また、強制されたものでもない。それは自己満足以外の何ものでもない。スポーツもまた、それと同じように優越感を伴わない自己満足の世界なのだ。
 しかるに現代のオリンピックは、悲しいかなメディアの口車に乗ってスポーツ芸能人の登龍門と錯覚し、オリンピックがスポーツマンの最終目標となってしまった。これはまったくの誤りである。
 競技スポーツの世界一を決めるのは一か国4名という出場制限のない世界選手権であることを選手はもちろん、スポーツ関係者も、メディアも肝に銘ずるべきなのだ。
 オリンピックが世界の平和と無関係となってしまったことを遺憾に思ったクーベルタンは、スポーツの外に絵画、彫刻、音楽、文学、建築の五部門を新しくオリンピック種目に加えることを提案した。そして、クーベルタンの強い意向によって1912年(ストックフォルム)から1948年(ロンドン)までの計10回のオリンピックに、この五種目がオリンピック種目として加えられている。
 日本が戦後初めて参加した1952年(ヘルシンキ)から残念なことにスポーツ種目のみとなったため、日本人に馴染みはないが、当時、日本でも現在の日本体育協会は大日本体育芸術協会と言われていたことを知る人は少ない。
 ちなみに体育とは「健康なる身体の発展を促し、運動能力や健全で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かにする教育」であり、スポーツと体育を混同してはならない。
 さらに付け加えると、学校で教える体育は、あくまで知育、徳育を補助するための保健体育であり、一般に言う「知育、徳育、体育」は誤りである。明治に入り寺子屋から小学校になった時点では、小学校の目的は「知育、徳育、美育(美しいものを美しいと感じる心)」であり、後に、保健体育が追加されたが、その際、美育は残念なことに消されてしまった。

西村修一(にしむら しゅういち)

1930年  東京に生まれる
1950年  全日本学生馬術選手権個人優勝
1952年  慶應義塾大学経済学部卒業
1953年  NHK杯受賞
1955年  日本スポーツ賞受賞
2000年  社団法人馬術連盟より功労賞受賞
2001年度 馬場馬術世界ランキング第82位
2011年  日本体育協会・日本オリンピック委員会より功労賞受賞

前社団法人日本馬術連盟理事
前社団法人日本近代五種・バイアスロン連合 常務理事
前関東高等学校馬術連盟会長
前全日本馬場馬術選手会会長
前社団法人日本彫刻会会員
現社団法人日本ペンクラブ会員
全国各競馬関係諸施設に馬の銅像20基設置

ホームページ 馬の彫刻作品集とエッセイ

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